【献血事業について】
第01回目は、今まさに、地域の魅力浸透委員会が開催中の公開献血の歴史をご紹介したいと思います。今回は大島からご紹介します。
こちら、名称については「献血事業」、「献血への協力」等様々に変わってきたようですが、20~40歳という青年世代である私たちが献血に協力しよう、というものです。それだけ聞くと、現在、行政や様々な団体も協力している社会貢献の一種かな、と考えるかも知れませんが、そこには遠く離れたJCの友情物語と地域に根差し活動する団体としての熱い思いがあります。
きっかけ1966年、甲府青年会議所の会員が鰍沢町在住の女の子を救うために立ち上がったことから始まりました。
その少女は心臓病で手術が必要でしたが、山梨県内では適切な施設がなく、福島県会津若松市の病院に入院、手術を受けることになりました。手術にあたり2000㏄(体重29㎏の女性の全血液量に相当)が必要でしたが、当時はまだ2年前に「売血」が禁止されたばかりで闇売血も多く、「黄色い血」と呼ばれる粗悪な血液が世に溢れていました。また血液の保存技術が発達していなかったため、手術に必要な血を確保するために、少女の家族は誰も知る人のいない福島の地で血液を提供してくれる人を探さなければなりませんでした。
その話を聞いた当時の甲府JCメンバーが「会津若松にもJCがあるからお願いしてみよう!」ということで縁もゆかりもない会津JCに電話をして事情を話したところ、「同じJCの仲間が困っているのなら」と即時快諾いただき、彼らの協力により2000㏄の血液を遠く福島の血で集めることができ、手術も無事に成功しました。
少女のお見舞いと会津JCへのお礼で会津若松を訪れるにあたり、当時の甲府JCメンバーが「自分たちも困っている人たちの助けになれるのではないか」と考え献血を行い、翌年の1967年からは甲府JCの事業として献血への協力が毎年行われるようになりました。これが、現在も続く甲府JCの「公開献血」なのです。
・・・という話を、私は、2015年に、献血事業の立ち上げ時のメンバーであった深沢登志夫先輩から直接うかがう機会がありました。(深沢先輩は2017年にご逝去されました。)1人の少女を救いたいと、甲府JCメンバーで何か方法はないかと何度も会議を重ねたお話や、会津JCに電話をしたら案外あっさり協力を得られたエピソード、そして、山梨から福島会津に向かい舗装されていないデコボコ道を何時間もかけてひたすら車で移動した話など、当時の生のエピソードをたくさんお聞きすることができました。そして、深沢先輩からは、絶やすことなく継続してくれている現役メンバーへの感謝のメッセージと、甲府JCで献血事業が始まった意味を忘れずに伝えていってもらいたいというお言葉をいただきました。
それにしても、「誰かのために」というその原動力って本当にスゴイ。山梨県の血液センター開設は1983年なんですよ。まだまだ献血というものが浸透していない時代から、甲府JCは献血の意義を地域に伝え、浸透させてきたんです。歴史の重みを感じます。
現在、新型コロナウイルスの影響で首都圏全体で献血量が少ないと聞いています。血液はまだ代替技術もなく、確保のためには献血が欠かせません。提供ができる方、是非ご協力をお願いします。
以上、公開献血のご紹介でした。
最後に、自爆ネタでもありますが、「献血体操」とググってみてください。私と一緒に献血体操を踊ってくださっている山本監事と細田直前にぜひご注目いただければと思います。